こんにちは!
うさカンです。
私、最近気がついたことがあります。
これ、個人的な意見になりますが、私のこれまでの体験の受け止め方の歴史(?)になりますので、よかったら読んでみてください😄
まず最初に、例えばなんですが、
片足がない方がいるとします。その人に、無理矢理「走れ!」という人はいないと思います。
でも、もし両足がある人に走らせようと思ったら、どうするでしょうか。
「走れ走れ!」と何度言っても走らないとします。それで、
「あれ?もしかしたらこの人には足の指が一本ないのかも」と感じ取ったとします。
靴下と靴を履いているから、本当のところは分からない…でも、なんかそんな気がする…
私は、こんな状態が、グレーゾーンとか、軽度とか、または内部障害的なものかな、と思うんです。外から見る限り分からないけど、何か違う気がする、
さて、そんな時に、気がする気持ちをなかったことにして「走れ!」と言うでしょうか?
私は、指が一本ないことで、走れるのか走れないのか、経験がないし情報も聞いたことがないので分かりません。
また、同じ指が一本ないと言っても、親指がないと走れないとか、小指がなくても走れるとか、そういう違いがあるのか?も分かりません。
でも、もしかしたら頑張っても走れない可能性があるのかな、ということは分かります。
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私の長女の体調が悪くなった時は5年生でした。その時には、原因は分からなかったけど、何故かみんなと同じことができなくなりました。
できる時もあったので、なんでだろう?と思っていたけど、でも娘の様子をよく観察して、言葉を聞いていると、どうしてもサボりとか、怠けとかのようには見えませんでした。
どんどん だらしなくなっていって、できることが減って、最終的には学校へ通えなくなりました。
起立性調節障害のせいだと分かったのは中2になってからでした。
その時は、「やっぱりね」という気持ちしかありませんでした。
私は最初は起立性調節障害の知識は全くなくて、まさかそういう病気だとは思っていませんでした。
でも、なにか理由があるんだろう、と思って、そのまま自由に過ごさせていました。そういう風にしかできないんだ、と思っていました。
考え方によっては、ただ だらしないから、夜は寝ないし、朝は起きれないし、普通の人と同じことができない人、という感じです。
でも、きちんとしたいと思ってもできない、と本人が思っていることを読み取ることができたので、必要以上に娘を責めなくてすんだと思います。
(本人は、ママには分からない、と何度も八つ当たり?してたけどね😅)
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そして次女のほうは、心因性頻尿は治り、今はHSCというだけです。コロナが怖くて学校や小集団生活に参加出来ません。みんなと同じことができていない子供です。
私は、次女がどう思うか、どう考えるのかというところに自由があってほしいと思っています。
自分が思うことを人に否定されないように、守ってあげたいと思っています。
だから、娘は特に悪いことをしているとか、人より劣っているとは思っていないようです。
その上で、私がわかる限りのコロナの情報は伝えています。もちろん本人もニュースなどで知っていますが、「こういう風に考えたら大丈夫じゃない?」というところがあれば、アドバイスはしています。
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人と同じことができない子と一緒にいて、一番イライラするというか困ることは、他人に迷惑をかけることではないでしょうか。
私もHSPなので、その点はひといちばい気にしていました。
そうなると、どうしても子供を急かしたり怒ったりして、なんとか他人に迷惑をかけないように、となると思います。
でも、私は理不尽に子供たちに怒りたくなかったので、
とにかく守れそうな約束しかしない、と決めていました。
また事前に、守れない可能性があると伝えて、それでも受け入れてくれる人とのみ付き合うように、少し人員整理しました。
お付き合い程度の人だと気を使うので、そこはもうお付き合いを遠慮して、
本当に理解してくれる人にだけ甘えて頼る生活に切り替えました。
もちろん、そういう関係を手に入れる為に、何度も何度も「できない理由」を説明して、理解してもらいました。
本当は、人に迷惑はかけてもいいんです。一人で生きれる人なんていないです。
もし理解されなかったら、それは社会がそういう人を受け入れるレベルに成熟していない、ということだから。
いろいろな人が、ワガママではなく、できることを自分らしく生きていいのです。
日本は特に時間に正確で、時刻表通りに世の中が動くけど、そうじゃない国もあるようですし、
自分の都合を優先するような文化もあるんだと思います。
どちらがいいというより、ほどほどがいいと思いますけど。私は。
まあでも、とにかく、頑張ってもできない子にイライラと怒らないように、自分なりのルールを作ってうまく暮らせたら、親のストレスもなくなるし、家族全体が平和になるかなーと思います。
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冒頭の話に戻りますが、
私は、「走れない」人でも、歩けたり、松葉杖、義足、車椅子など…
いろんな人がいていいと思います。(当たり前)
それはたぶん、自分が望んでそうなった訳ではないのに、いちいち遠慮する必要があるでしょうか?
どんな人でも、楽しく暮らせること、自分の希望を叶えたり挑戦できる環境があることが大事だと思います。
足の指がない人でも、走ることに挑戦したいと思えばやってみればいいし、
もしできなくても、周りにとやかく言われないでほしいし、どちらにしても幸せって思える社会を作っていきたいと思います。それはハード面もソフト面も両方です。
外から見えないことは、私も理解できないことも多いと思うけど、
「もしかしたら無理なのかも」という可能性は常に考えておきたい。
できないことが本人の努力不足だと決めつけないでほしいです。
発達障害、起立性調節障害、HSCなどの概念が昔は一般的に知られていなかったように、
今現在は誰も知らないような不自由なことが実はあるかもしれないし、
これからまたいろんな事が発見されるかも、と思うと、
とにかく人を決めつけることはできないと思うんです。
周りから見て、「もっとできる、頑張れる」と思っても、
実は本人はもう「かなり頑張っているけどできない」のかもしれません。
でも、この人の為と思って親切心から教育などを押し付けてしまうこともあると思うのですが、それは弱い立場の人も勇気を出して、
「それは私には苦しいからやめてください」とはっきりと伝えられたら…と思います。
そういう人は、苦しめようと思ってやっているわけではないので、きっと愛情が沢山あるんだと思います。ただ知らないだけ、気付いてないだけ。
でも、やられる側は苦しいですよね。
自分の為にやってくれてると思っても、辛いことには「やめて」と言っていいのだよ。
もし弱い者いじめをする人がいたら、
「何様なの?」と言ってください。
私たちにはみんな長所も短所もあり、短所ばかりをなじる資格なんて誰にもないと思います。
私はそう思います。
たとえ年長者が相手でも、違うことは違う!というのが当たり前の価値観になると、苦しい人が減ると思います。
本当は親も先生もみんな子供のことを思っているんだと思うんですよね、
でも、詳しい知識がないと、間違った方向に行ってしまうかもしれません。
もし、私の文章を読んで、何か気付いてもらえたら嬉しいな、と思います。
社会も学校も家庭も、インクルーシブ(多様性)を目指して、優しく受け入れられるようになっていくといいな、と思います。
子供たちが、みんなと同じようにできなくても、
もし子供が学校に行きたいと言ったら、うちの娘だって「楽しい」と思えるような環境を作ってほしいと思います。
それが私が子供を通して作れる小さなインクルーシブだと思います。
そして私は、みんなと同じようにできない子供でも、堂々と子育てしていきたいし、それでいいと思って毎日子供たちに接しています。
子供達を、
「みんなと同じことができるように育てる」ことを目標にするのではなく、
与えられた自分のスキルの中で、積極的に何かに挑戦する心、人生をより楽しむ術を自分で見つけていくこと、
そういうところを育てていけたらいいな、と私は思っています。
その為には、強制ではなく、自発的に思う気持ちを根気強く育てる必要があるのかな、と感じています。
人生は親のためでなく、自分のためですから。
ちなみに、私は自分が完璧じゃないから、できないことが多いからこそ、子供たちの気持ちがわかります。
今は更年期かな?って感じだけど、正確な理由は他にある可能性もあるし、分かりませんね。
でも、自分が人並みにできないことがあるからこそ、このインクルーシブが理解できるし大切だと思う。
そういう意味では、私の子供たちもそういうことを理解できる子になると思うし、いろんな人に優しくできる人になると思います。
だから、「できない事」は悪じゃないと思います。
みんな年を取ったり、何かの病気になったり、不自由になる時が来るかもしれない、
一生懸命頑張ってもできないことが出てくるかも。
その時に、どういう社会であってほしいのか、自分はどうされたら嬉しいのか、どう生きれたらいいと思うのか、
想像してみましょう😊
生きているのに、「人生終わった」なんて思わないように・・・