こんにちは!
うさカンです。
私、最近、養老先生のYou Tube動画をよく見ています。
養老先生は、東大で解剖学者をされていたのですが、子供のときから虫取りが趣味なんだそうです。時には難しい話をされたり、時には少年のようだったりで面白いのですが、私にとってはなんとなく「おじいちゃん」を思い出します。
おじいちゃんの話って、たまによく分からないことや方言があったのですが、それがまた新鮮で面白かったんですよね。
私は親が上京して家庭を持ったので、年に2回くらいしか会えなかったし、今の子供たちと同じような状況なのですが、おじいちゃんは戦争体験があったりして、知らない話を聴く機会もありました。(そんなに積極的には話さなかったけど)
今のおじいちゃんは、だいたい戦後生まれだと思うので、子供たちにとってはどう写っているのでしょうね?
黒電話とかテレビが違うくらいで、生活は大きく変わらないですよね。
今の時代は、そういう「ちょっと分からない話」とか、「想像の世界で聴く話」とかが減ってしまったかもしれませんね。
話は明解で、必ず理解できるもの、すべきもの、答えがあるもの、みたいにいつでもスッキリしてるべき、みたいな感じですかね?
現代社会ってみんなそういう風に成り立っているのかな。
昔、ファジーという言葉が流行ったけど、AI時代にファジーは受け入れられないのでしょうか。
でも、なんか大事なものを無くしてしまったような気がします。
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養老先生の話を聴いていると、昔は子供が小さいうちに亡くなることもよくあったようですし、家庭の中でもおじいちゃん、おばあちゃんが亡くなったり、弱っていく姿を見ながら生活したりしていたのが分かります。
私のおじいちゃん、おばあちゃんの兄弟も全員揃っていなくて、途中で亡くなった話とか聴いたことがあります。
話で聴くだけでも、ちょっと怖かったり、悲しくなったりしたものです。
昔は、そういう人の死が身近にあったりして、子供の命が大切にされてたのかな、と想像します。
何かができる、とかよりも、とりあえず元気に育ってね、という価値観が強かったんじゃないかな。それで元気な子供たちは、のびのびと暮らしていたんじゃないでしょうか。
また親たちも生活に必死で、子育てにかけられる時間も少なくて、教育ママなんて出来なかったでしょう。
そういう環境のなかで、敏感ではない子供たちも、自然と死や人生観を考えたり、命について触れる機会もあって、なんとなく繊細さも持ち合わせていたんじゃないでしょうか。
ところが今は、なかなか人が老化することを見る機会もありません。
人は病気になると病院だし、年を取れば老人ホームだし、障害者は施設だし、お葬式は葬儀場だし…
というように、サービスが向上して、制度がしっかりしてきたからこそ、目にする機会が少なくなって、なかったことにしてしまっていることが沢山あるのかもしれません。
そうすると、非敏感な子は、繊細さを意識することも少なく、敏感な子供がとても特殊で目立つようになってきたような気がします。
昔は誰でも感じていた答えの出ない複雑な感情が薄れてきて、大多数の人が非敏感タイプになったことで、みんなに理解されていた繊細さんが生きにくさを感じるようになったのかもしれない、
養老先生の話を聴いていたら、そんな気がしてきました。
昔は自然観察もしようと思わなくても自然と目に入ったのに、今はアスファルトとビルが当たり前で、変化を感じなくなってきた、鈍感化しているのかもしれません。
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そう考えると、学校から溢れてしまっている敏感な子供たちは、貴重な感覚を失っていないのかもしれません。みんなと合わなくなってしまっていても、私はその敏感な感受性を大切にしたいなあ、と思います。
そして、子供たちが早くおじいちゃん、おばあちゃんに安心して合うことができて、いっぱいお話を聴く機会が来るように願っています。
娘がYou Tubeでクレヨンしんちゃんの実況動画を見ていると、便利なようでなんか切なくなります。
本物の田舎へ連れて行ってあげたい!!
ちなみに、養老先生の動画はこちら😃↓↓
本よりYou Tubeのほうが、先生のお話の仕方が好きで、私はいいと思います。
おじいちゃんを思い出す・・・☺️